コラム


<白木会長、これまでのKJFを大いに語る!> 2004.6.7

 みなさま、大変長らく(!)お待たせいたしました。第2回コラムは、白木会長の登場です。今年で15回を迎えるKJFを振り返り、たっぷり語ってもらいました。

1990年にくっちゃんJAZZフェステイバルは産声をあげました。最初は冬の開催で、故ウォルタービショップJrトリオ(ベンジャミンブラウン(b)、アキラタナ(ds))のトリオをメインに、1部では、地元高校吹奏楽部、アマチュアバンド(実は、私のトリオ※注:白木さんはアマチュアジャズピアニストという顔も持ち、現在もドセベネーノというバンドで活動しています。)の演奏と、吹奏楽部とプロとのセッション(セッションというより手ほどきして頂きながらの合同演奏)を2曲演奏。次の日(2部)は、高校の音楽室を借りて、ウォルタービショップによるジャズクリニックを開き、一般公開しました。主催は、後志管内の建設業仲間でした。

2回以降は、倶知安を中心にした異業種仲間を集めて行ないました。この頃は、何せど素人ですから、プロのブッキングから事前告知からチケット売りからステージの段取りからすべて試行錯誤の失敗の連続でしたね。ただ、組織が小さいので即決でどんどん悪いところは改善してきましたね。

第一回の転機は、92年の第3回ですね。それは、現在の事業の柱となっているモントレージャズフェスティバル(MJF)との交流の始まりです。事業内容は、米国選抜の高校生(20名)プレーヤーが地元でホームステイを行い、当ジャズフェスに参加するというもので、KJFの事業規模も倍以上になるということで随分議論を重ねたのを覚えてます。今となっては、国際交流事業として、なくてはならない物になっております。

第2回目の転機。それは、会場を移した第7回です。土曜日はプロを招いて屋内で、日曜はアマチュアだけを集めて野外でという構成でおこなってましたが土曜の会場キャパが550名と少ないのに加え、日曜に関しては、アマチュアなので出演者の取り巻き程度しか集まらなく、このままでは、フェスティバルも続かないと考えての決断でした。

しかし、会場移転に伴い、事業はそれまでの規模をはるかに超えるものになり、難題が多くありました。ひとつには、ステージです。6回までは、小さいステージで自分達で組んでたくらいですから。それが、一気に本格的なステージを作ることになり、会場施設体育館を含め借りることやら体育館管理用道路の使用やくとさん川の河川敷道路の使用といろいろ手続きでも大変な思いをしました。また、2日間ともプロの演奏を行い、祭りとして集客を伸ばすよう務めるようになったのも、この年からですね。1部のアマチュアは公募で集めましたが、この年も実は私も出演ささせていただきました。間近になってからキャンセルがあったためですが・・・。この年は、STVで「北再発見」、「みんなの赤レンガ」などで取り上げていただき、道内で放送されました。

第8,9,10回の3年間は、HTBで1時間半の音楽番組として道内に放送していただき、CSなどで毎年アジア10ケ国にも放映、紹介されました。こんなことからシンガポール社会人ビッグバンドの出演の機会もできたわけです。野外のイベントではやはり天気ですね。雨で何回泣かされたか。そのたびノックアウトされたようなもんです。振り返ってみると感動と挫折の15年でした。

  くっちゃんJAZZフェスティバル実行委員会会長
白木 茂
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